自宅で看取る。認知症の祖父が最期に見せた「奇跡」

2026.02.07 Sat

冷え込みが厳しい冬の朝を向かえると、ふと思い出す光景があります。それは私が小学一年生の頃、自宅で息を引き取った祖父の最期の姿です。

当時の言葉で「脳軟化症」、今で言う認知症を患っていた祖父は、長く伏せっておりました。訳のわからない言動を繰り返す祖父を、祖母は献身的に支えていました。そんな祖父が肺炎を起こし、いよいよお別れの時が来たのです。

幼かった私にとって、それは「怖い」という感情よりも、どこか神聖でドラマチックな出来事として映りました。

それまで虚ろで、どこを見ているのか分からなかった祖父の瞳が、最期の瞬間に、かつての元気だった頃のような輝きを取り戻したのです。枕元に集まった家族を、左から右へとゆっくり、一人ひとりの顔を確かめるように見つめた祖父。その眼差しは、言葉にならない「ありがとう」を伝えているようでした。

祖父が静かに目を閉じた瞬間、祖母が泣き崩れながら、祖父の額に自分の額を寄せた姿を今でもはっきりと思い出せます。 「お爺さん、よかったね。これで終わったよ」 その言葉は、介護という長い旅路を共に歩んだ二人だけが分かち合える、究極の労いと愛の形だったのでしょう。

その後、親類たちが祖父の体を清める傍らで、私は不思議でなりませんでした。さっきまで温かかった体が、なぜこんなに冷たく、硬くなっていくのだろう、と。顔に白い布を被せられ、独りで線香の番を任された時の心細さは、私が初めて「死」という絶対的な境界線を肌で感じた瞬間でした。

今の時代、多くの方は病院で最期を迎えます。効率や清潔さは保たれても、死が日常から切り離され、どこか遠い場所の出来事になってしまっているのかもしれません。

私はその後、祖母や父を亡くしましたが、その最期に立ち会うことは叶いませんでした。だからこそ、あの冬の日に自宅で経験した祖父との別れは、私の中に「生」の尊さを教える確かな根を張ってくれました。

人はどう生き、どう去っていくのか。
慌ただしい現代だからこそ、時折立ち止まって、そんな目に見えない大切なバトンについて考えてみるのも、豊かな人生を歩むための一歩かもしれませんね。

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